モアイ像の謎

『ピラミッド5000年の嘘』の作品の中では、ピラミッドの謎について問題提起がなされていますが、作品の中でイースタ島やアンデスといった世界の古代遺跡についても述べられています。チリ領にあるイースター島にある「モアイ像」もどのような目的でそして用途としてつくれたのか?!という点に関して、いろいろな諸説がありピラミッドの謎と同じく定説は未だありません。

イースター島はモアイの建つ島

世界的にも有名なモアイ像はイースター島にあります。イースター島は、周囲にはほとんど言って良いほど島らしい島が存在していない絶海の孤島がイースター島です。そしてポリネシア・トライアングルの東端になります。現地の呼び方は「ラパ・ヌイ」と呼ばれていますが、その呼び方の意味は、ポリネシア系先住民の言葉で「広い大地」「大きな端」という意味になります。かつては世界のへそを意味する「テ・ピト・オ・ヘヌア」や天を見る眼という意味の「マタ・キ・テ・ランギ」と呼ばれていました。

モアイ:石造彫刻

イースター島の海に面したアフと呼ばれる高台にあり、そしてモアイ像の多くは海に背を向けてありますが、正確にはかっての住居跡を取り囲むように多数のモアイが建てられています。モアイ像の大きさは3.5mあり、重量は20トン程度になっているものが多くなっていますがモアイ像の中でも最大級のものは20mで、重量は90トンに達します。モアイ像は島で産出される凝灰岩でできていて、建造中に放置されたものも含めると約900体ほどあります。現在アフーに立っている約30体のモアイは、すべて近代以降に復元されたものになっています。そして水中にあるモアイ像も存在しています。

モアイ像は造られた時代によってモアイ像も変化しています。初期のモアイとされるモアイ像の特徴は、高さが約3m程度になっている小型のモアイが多くなっていますが、時代がいくにつれてモアイ像は大型化していきました。そしてモアイの顔も初期の頃は人間に近い形になっていますが、後期になるとモアイの顔は細長くなっていきました。アフに建てられたことのあるモアイには、頭と胴体があります。また後期に作られたモアイの中でも特に大きなモアイにはプカオと呼ばれる赤い石を頭上に乗せられていて、一部のモアイには目も入っています。

モアイもとにかく謎が多い

「モアイ」という言葉の意味もいろいろ説があるため特定されていませんが、モアイの語源も含めた「モアイ」の意味は不明になっていますが、言葉以上にモアイの最大の謎はやはりなぜモアイが建造されたのか?!という建造目的でした。近年の調査によると、モアイの台座から人骨が多数発見されたこともって、「モアイは墓碑だった」という説がモアイ像がなぜ造られたのか?という理由についての有力な説になっています。

モアイの独特の形についても、やはりいつごろからこうなったのか?!といった起源が未解明になっています。そして他の地域の似たような形状の石像もありますが、いずれの説であってもモアイ像の形の起源についての特定するまでには至っていません。

日本の奈良県明日香村にある「梅山古墳」に4体ある猿石が起源じゃないのか。という説や南米のティワナク遺跡の石像群と関連があるのでは?!とも指摘されていますが、残念なことに未だにどちらが先で、どちらが後になるかの議論には結論がでていません。どうしてモアイの起源について、仮説を絞れないのかという最大の理由は、モアイの形状があまりにも独特な形状になっていて、モアイと似た形状の石像がイースター島以外ではほとんど存在していないため、モアイとの関連性を突き止められないからです。

モアイにはかつて目がはめ込まれていた事がわかっていますが、復元されたモアイには目がはめ込まれた物も存在しています。ところがこの目は、写真撮影のために後から作られたレプリカになっています。モアイの眼にはめ込まれていたであろう目の材質は、サンゴ質の石灰岩であることが判明しています。そしてこの眼につかわれたサンゴ質の石灰岩がどのように入手されていたかという点でも、問題視されていますが、目はわずかな数しか見つかっていないため、全てのモアイにはめ込まれていたのでも、つねにモアイに目がはめ込まれていたのでもなく、おそらく実際にはあまり製作されずに儀式の時といった特別な時だけに使われていたと推測されています。イースター島の近海には、大規模な珊瑚礁はありませんが、沖縄と同じぐらいの緯度になる南緯27度にイースター島は位置していて亜熱帯地帯のため、海面近くまで珊瑚礁が形成されていないだけで、サンゴ質の石灰岩の入手は難しくないからです。

後期のモアイの頭上には、帽子のような「プカオ」と呼ばれる帽子をかぶったているような形の石も発見されています。ただし、現在知られているプカオの数は100にもならず、最も大きく贅をこらしたアフ専用だと考えられています。これからは当初、地位をあらわすための帽子もしくは女性の髪形を復元した物だと考えられていましたが、その後にプカオは男性の「結髪」をプカオで再現した物だということが明らかになりました。プカオはポリネシア全体で珍重されている赤い鳥の羽根飾りと同じくように、赤い岩滓で円柱状に作られています。材料となる赤い岩滓は全て「ブナ・パウ」と呼ばれている採石場から切り出されているためり、製作途中のプカオも残されています。

モアイの建設方法

モアイの材料となった石材は凝灰岩です。そしてモアイを造るための採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれている直径約550mの噴火口跡です。そこには、現在でもモアイが完成する前の、あらゆる段階の石像が散乱する彫る道具とともに残されていることから分かります。そしてラノ・ララクの噴火口から、火口縁の低い部分に切り込まれた溝を通過して下降するようになっていますが、そこから北と南と西の三方向へ放射状に道が伸びていて、最も長い道はイースター島の岸まで約15kmも続いています。

考古学者のヘイエルダールが、イースター島の現地に住む住人の協力を得て行った実験があります。その実験では、木にモアイを横倒しにして乗せてます。そして木の上に載せたモアイを、大勢で縄で引っ張っりました。そして木の棒と、大小の石を積むことで立たせるという方法での検証実験でした、当時の人口や技術力でもモアイを運搬することが十分に可能だったことを証明することになりました。

この実験の詳細は、モアイを立てた事、そしてモアイを運ぶ試みは別々に行われましたが、最初にした実験はモアイを立てる試みでした。そしてこれは実験ではなく、現地にもともと伝承されていた技術に基づいたものになっていて、設置には12人で18日掛かったものが、イースター島のアナケナ・ビーチ近くの丘に残っています。倒れたモアイを近くのアフに立てましたが、木の棒と地面とモアイの隙間に入れていく大小の石で、モアイを立たせました。

そしてモアイの運搬方法ですが、直接ではないが伝承では石垣にする大きな石を運ぶ時に使ったとされるミロ・マンガ・エルアという、Y字形の分かれた木の幹でつくった石づちがあったといいます。またハウ・ハウの木の皮で、引っ張るための太い綱を作ったとされています。

ところがこの実験の後に、その後の研究によると、モアイは完成した後にすぐに立てられて、立った状態で縄で目的地まで運搬された、という方法も示されているため、この完成した直後の立った状態の運搬の方法をとると、横倒しにして運搬するよりも、作業にあたる人数が少なくてもすむ上に、効率も良い事が確認されています。そしてこの運搬方法は、現地の伝説になる「モアイは自分で歩いた」説の根拠にもなっています。