絢爛豪華なアルテミス神殿

現在のトルコに存在してアルテミス神殿は、ギリシア神話に登場するる狩猟・貞潔の女神で後に月の女神にもなったアルテミスを奉った総大理石の神殿です。建造された当時はエフェソスで、紀元前7世紀から紀元3世紀に存在した世界の七不思議のひとつの神殿です。なんでもこの神殿を見た世界七不思議のリストを編纂した紀元前2世紀後半のアンティパトレスは、このアルテミス神殿を見たときには、空中庭園も大ピラミッドも、そしてゼウス像もその他の驚きも全て霞んでしまった。と述べるほどなので、アルテミス神殿は世界七不思議の中でも特別な存在だったことがわかります。

アルテミス神殿

アルテミス神殿があったのは、現在のトルコ共和国の港町イズミルからさらに南に50kmほど離れたところにあった古代都市のエフェソスです。この神殿を世界七不思議リストに入れた理由には、美しさや大きさよりもギリシア世界の境界近くにあったことからです。アルテミス神殿の建っているその所在地から、ギリシア人には神秘と畏怖の念を与えることになり、アレキサンダー大王の帝国の巨大さを強調したからです。

遺跡が発見されたのは、イギリス人技師のジョン・ウッドが率いる、大英博物館の考古学探検隊です。この考古学探検隊は、1863年から7年にわたってエフェソスの発掘を続けて、遂に1869年12月に深さ4メートル半の泥の中から、アルテミス神殿跡を発見しました。このアルテミス神殿が発見されたのは、シュリーマンがトロイアやミケーネを発掘する以前の発見になり、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなりました。ジョン・ウッドが率いた考古学探検隊が発見した円柱の断片などは、現在大英博物館に所蔵されています。そしてその後の調査によると、アルテミス神殿は3つあって、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかりました。そして最も古い物は、紀元前700年頃と推定されています。

神殿の大きさは、広さが縦115メートル、横55メートル、高さ18メートルになっていて、イオニア式の柱が127本となっていました。神殿の内部は大理石の板石で飾られていて、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成されていました。そしてツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれました。その像は木製になっていて、顔と手足の先以外はすべて黄金そして宝石で飾られていました。

アルテミス神殿は他にもあります。それは多くのすばらしい芸術品を所蔵していたことです。絵画、金銀に彩られた柱、そして高名な彫刻家たちの作品がアルテミス神殿を飾っていました。そして高名な彫刻家たちは、腕自慢をするために、優れた彫刻を作ることで競争したといいます。

エフェソスでのアルテミス

アルテミスはギリシアの女神です。そしてアルテミスはアポロンと双子で、そして清純な女狩人として知られています。また月の女神として、ティーターンやセレーネーに代わる月の女神としてもそんざいしています。ちなみにアテネでは、クレタ島の地母神としての性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテーナーがアルテミスよりも崇められていました。

その一方で、エフェソスの方ではどうかといえば、アルテミスはとても敬われていた存在になっていました。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しています。そしてその月には、丸1ヶ月の間も祝祭が催されたほどです。信仰の対象は、ギリシア文化以前の古い偶像でもありました。そしてその元となる偶像は木製になっていて、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的になっていて、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っています。そしてこの女神の象徴は蜂でした。

この偶像の複製や縮小したものが古代には出回っていますが、その像が現在も残っている。また、その偶像はギリシア本土のものとは違って、エジプトや近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっていて、足首はそこから出ています。

また、エフェソスで鋳造されたコインでは、多数の乳房を持った女神が、大地母神のキュベレーの特徴としても見られるように、胸壁形の金冠の城壁冠をつけています。そして蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロスという自分の尾を、自分の口に入れている蛇を積み上げたものに手を置いています。このような習合した慣習には、オリンピアの神々をはじめとする国外の神々を吸収したものだと思われます。

アルテミス神殿の歴史

神殿は紀元前550年頃に、クレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計されました。そして神殿を造るにあたっての資金は、裕福なリディア王クロイソスの負担で建築されることになりました。古代ローマの博物学者で、百科全書「博物誌」を書いた大プリニウスによると、アステミス神殿が建てられた場所は将来に起こる地震を警戒してか、建設地には湿地が選ばれたといいます。湿地という場所に、巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷いて、そこにさらに羊毛を敷きこみました。今でいう地盤強化みたいなものですね。

こうして完成したアルテミス神殿は、旅行者の注目の的となりました。神殿を見ようと、商人や王といった観光客が訪れて、訪れた多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表しました。アルテミス神殿の壮麗さは、多くの礼拝者もひきつけることになり、アルテミス崇拝を形成することになりました。

そしてこの神殿はほかの使われ方もされました。それは避難所です。アルテミス神殿は避難所としても知られていたため、犯罪者を含めた多くの人々が、自分の身の安全のためにアルテミス神殿に逃げ込みました。そしてアルテミス神殿に逃げ込んだら、アルテミスの保護下にあるとみなされたため、犯罪者であっても捕まつことはありませんでした。また、アマゾネスがヘラクレスとディオニュソスから逃げて避難したという神話もあります。

エフェソスのアルテミス神殿は、紀元前356年7月21日に、若い羊飼いのヘロストラトスという青年による放火で破壊されることになってしまいました。古代ギリシアのこの羊飼いの若者の名前が、21世紀になっても伝わっている理由は、ただひとつアルテミス神殿を放火したからです。ギリシア各地にあったアルテミス神殿のなかでも、エフェソスのアルテミス神殿は特別なもので、特に美しいとされていました。

その有名なアルテミス神殿に放火をすることで、とにかく有名になりたかった。というのが放火した理由です。今も昔も、こんなとんでもないことをしでかす若者がいることにも驚きますが、彼はつかまった後も責任逃れをすることはなく、堂々と自分が放火した犯人だということを認めました。それは「自分の名前を歴史に残すために、一番美しい神殿に火を放った」とまでのこしています。このような事から、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれていますが、この言葉がもつ意味は、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表すときに「ヘロストラトスの名誉」といいます。

もちろん、この羊飼いの青年がしでかした放火事件は、エフェソスの人たちは大いに憤慨します。そしてあえて名前を残さないように、ヘロストラトスに死刑宣告をしただけではなく、これから先もヘロストラトスの名前を口にしたらその人も死刑!とまで処置をっとりました。ところが、残念な事にこの時代の歴史化テオポンポスがこの事件のいきさつと、ヘロストラトスという犯人の名前を記録に残したので、悔しいことにヘロストラトスの名前は今もしることになっています。そして放火事件がおきた同じ夜に、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)が誕生しました。ローマのギリシア人著述家のプルタルコスは、アルテミスはアレキサンダーの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現しています。。

アルテミス神殿は放火されてしまいましたが、エフェソスのひとたち以前のものよりも、もっと立派な神殿をつくろうと考えます。そしてアレキサンダーは後に神殿の再建費用を支払うと申し出ましたが、エフェソスの人々がこの申し出を拒否しました。その理由には、神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられています。放火で燃やされたアルテミス神殿は結局、アレキサンダー大王が亡くなった後の紀元前323年に神殿は再建されました。

アルテミス神殿は再建されましたが、ローマ皇帝ガリエヌスの治世262年に、今度はゴート人(ゲルマン系の民族でドイツ平原の古民族)が襲撃したとき似、略奪され破壊されてしまいました。資料によれば、「ゴート人の指導者たちは、船を操ってヘレスポント海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えてアジアへとやってきた。そしてゴート人によって多くの都市が破壊されて、有名なアルテミス神殿に火をつけた」と伝えられています。

そしてそれから200年の間に、今度は住民の宗教も変化しました。エフェソスの人々の大多数は、ギリシャの神を信仰するのではなくキリスト教に改宗しました。そのためエフェソスの人々にとってアルテミス神殿そのもの存在として魅力を失いました。そして結局キリスト教徒によって、アルテミス神殿は完全に破壊されることになりました。建物の残骸の石は他の建物に使われて、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建つことになりました。